ヤンマーサッカーOB会タイトル
 


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加茂 周氏 2017年第14回日本サッカー殿堂掲額祝賀会開催される!


両氏の挨拶写真と
ヤンマーサッカー
OB会からの参加者
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 2017年12月25日(新阪急ホテル)にて、関西学院大学 サッカーOB会主催による「加茂 周氏 日本サッカー殿堂掲額祝賀会」(8月日本サッカー殿堂入り)が開催され、ヤンマーサッカーOB会より代表して、釜本氏が、セレッソ大阪から森島氏が挨拶いたしました。
両氏の挨拶の写真とヤンマーサッカーOB会からの参加者写真はこちらからPDFでご覧になれます。

加茂氏(78)は関学大を卒業後、ヤンマーディーゼル(現セレッソ大阪)で現役生活を送り、67年に指導者に転じ、74年に日本初のプロ契約監督として日産(現横浜M)の指揮を執り、88−89年には日本サッカーリーグ(JSL)、JSL杯、天皇杯の3冠を達成した。
94年に日本代表監督に就任。97年10月、W杯フランス大会アジア最終予選の途中で解任された。その後、京都や関学大の監督を歴任。

 

鬼武健二氏 2015年第12回日本サッカー殿堂掲額!
 日本サッカー協会(JFA)は、第12回日本サッカー殿堂に故・松丸貞一氏、下村幸男氏、二宮寛氏、
鬼武健二氏の4名を掲額することを決定した。(8月7日にJFA公式サイトで発表)
鬼武健二氏は1967年から78年までヤンマーの監督を務め、日本サッカーリーグ174戦で93勝を記録した
最多勝監督。
ヤンマーの黄金時代を築くとともに、ブラジル出身の選手をチームに溶け込ませて新しいスタイルを構築した。
また、セレッソ大阪のJリーグ加盟にも尽力し、2006年に第3代Jリーグチェアマンに就任。「ACLサポート
プロジェクト」の立ち上げによるJクラブのレベルアップ、イレブンミリオンプロジェクトによる集客施策、環境改善につとめ、日本サッカーの発展に多大な貢献をした。
 今回の4名が加わり、日本サッカー殿堂に掲額される総数は72名となった。
なお、掲額式典は9月10日(木)17:00より「JFAハウス 日本サッカーミュージアム内ヴァーチャルスタジ
アム」で高円宮妃久子殿下のご出席のもと開催された。



釜本邦茂氏、旭日中綬章を授章

 2014年4月29日発表の春の叙勲に釜本 邦茂氏が旭日中綬章を授章。
   
 この度、旭日中綬章を授章したことに大変驚き、そして大変光栄に嬉しく思っております。 
参議院議員を務めたこと。また、長年サッカーに携わってきてサッカーの普及だとか、若い人の指導をする。
そういうことがある面では認められたのかなと思います。
 特に、ヤンマーでは 17 年間、選手、監督を務め、いい仲間に恵まれてヤンマーの強い時代を作ることが
できました。
この仲間と一緒に出来たということが、私のサッカー人生のなかでしんどい時もありましたが、
非常に楽しい選手生活を送れたということだと思います。
 今も若い人たちの指導を続けている中、この章をもらったことで最後にするわけでもなく、これからも
今まで通り自分に与えられた使命、役割を果たして行きたいと思っております。
今後とも宜しくお願いいたします。
                                                 釜本 邦茂
ヤンマー株式会社、長居陸上競技場のネーミングライツを取得

ヤンマー株式会社は「長居陸上競技場」と「長居第二陸上競技場」のネーミングライツを取得し、それぞれの名称を「ヤンマースタジアム長居」と「ヤンマーフィールド長居」に決定したことを2014年2月20日発表!

ヤンマーというブランドを冠した、この2つの競技場が、今後Jリーグはもとより、サッカー日本代表戦や、世界陸上をはじめとするさまざまなスポーツの場で活用されていくことは、まさにヤンマーが掲げるスポーツコミュニケーションの具現化といえます。
今回のネーミングライツ取得を通して、長年応援し続けていただいているセレッソサポーターのみなさまへの感謝、そして世界のビッグクラブになるべく挑戦を開始したセレッソ大阪とともに、関西企業として「大阪を元気に!」との想いを積極的に発信していきます。
4月12日(土)のJリーグ セレッソ大阪対ガンバ大阪戦「大阪ダービー」が新スタジアムでのこけら落としとなる予定です。
セレッソの森プロジェクト寄付金募集

社団法人セレッソ大阪スポーツクラブは舞洲スポーツアイランドに練習場並びにクラブハウスを建設いたします。そのクラブハウス周辺に桜の苗木を植栽し、クラブとともに成長していく「桜の森」を育てるプロジェクトを発足しました。
このプロジェクトは、クラブハウス建設並びに桜の森を育てる資金を一般の方からの寄付を募ってその一部に充てる計画です。プロジェクトをお知らせするとともに寄付へのご協力をよろしくお願いいたします。
尚、ヤンマーサッカーOB理事会(9月28日開催)は、このプロジェクトに参加(法人・団体コース:200,000円)することを決定、この参加費に充てるため25年度の年会費に1,000円追加(3,000⇒4,000円)いたします。
<セレッソの森プロジェクト>
1.募金名称:セレッソの森 基金
2.募集主体:セレッソ大阪スポーツクラブ
3.募金使途:クラブハウス建設資金ならびに植樹緑化費用とその関連
4.募金メニュー
@個人ネームプレートコース :1口  12,000円
A個人植樹コース      :1口  30,000円
B法人・団体・グループコース :1口 200,000円
5.お申し込み方法
@オンラインショップでのお申し込み http://www.cerezo-sportsclub.or.jp/
A専用申込書+専用口座への振込み (添付ファイルに記入してFAX)
B専用申込書+請求書発行による申し込み (添付ファイルに記入してFAX)
*詳しくは添付ファイルをご覧ください。
セレッソ大阪アジアチャンピオンズリーグで快進撃!!
セレッソ大阪の、そしてアジアチャンピオンズリーグ(ACL) の歴史に新たなページが書き記された。
ACL 初出場のセレッソ大阪はグループリーグで試合を重ねるごとに力をつけ予選を軽々と突破、大阪ダービー戦を迎えた。下馬評ではバランスのとれたガンバ大阪が圧倒的有利と伝えられていたが、ひたむきに勝ちにこだわったセレッソが勝利し日本勢で唯一ベスト8 進出を果たした。
準々決勝の全北現代( 韓国) 戦ではヤンマーサッカーOB 会員数名が全北スタジアムに駆けつけ大声援を送った。残念ながら得失点差により準決勝に進むことはできなかったが、この経験は選手たちに大きな自信と優勝が実現可能であることを確信させたはずである。
われわれは今後も、この誇らしき後輩たちに熱いエールを送り続けて行きたい。
2012年1月25日会報 第6号
故・ネルソン吉村殿堂入り!!
ネルソン吉村 ネルソン吉村大志郎氏(2003年死去)が日本サッカー発展への長年にわたるご尽力と功績が認められ「日本サッカー殿堂」入りを果たす。
ネルソン吉村氏はヤンマーサッカー部のMFとしてブラジルから来日、1967年から1980年までクラブに所属、釜本選手らと共に、ヤンマーサッカー部の黄金期を築いた、また1970年には日本国籍取得、日本代表選手としても大活躍された。
9月11日開催(VS広島)セレッソ大阪のホームゲームでは殿堂入りを祝して、森島アンバサダーからネルソン吉村氏ご家族へ花束贈呈のセレモニーも執り行われました。
2010年9月11日会報 第5号
第1回ネルソン記念カップ開催
第1回ネルソン記念カップ

10月17日(土)に第1回ネルソン記念カップを開催。
当日は好天にも恵まれたなか、ヤンマーサッカーOB会員40名が参加し、 人工芝が映える尼崎サッカーグランドで熱い戦いを繰り広げる。
対戦は尼崎シニアチームA,B選抜チームで25分一本勝負のリーグ戦、結果、各チームとも一勝一敗、得失点差により辛うじてヤンマーサッカーOB会が優勝。第1回ネルソンカップを制す。
この日は元三花寮長夫人、吉村夫人も参加され試合後の懇親会でも当時の懐かしい話で盛り上がり楽しい一日となりました。

2009年11月17日 会報 第4号
モリシ引退
モリシ 今季限りで引退するJリーグ2部(J2)C大阪の元日本代表MFの森島寛晃(36)は31日、大阪市の長居陸上競技場でC大阪史上初、ヤンマー時代も含めると釜本邦茂氏以来の引退会見をした。
思い出の試合はワールドカップ(W杯)日韓大会のチュニジア戦で「本拠地の長居でプレーできて、得点もできたというのは自分の財産になると思う」と感慨深そうに振り返った。
2008年11月1日 サンケイスポーツ
セレッソ大阪応援 横断幕のお披露目!!
セレッソ大阪応援横断幕 2007年10月24日VS山形戦でセレッソ大阪応援横断幕のお披露目となった。
この日はヤンマーOB会会員で応援ツアーを募り総勢38名で横断幕の元で観戦した。
ゲームは山形の激しいプレスのなかディフェンスから中盤、前線へと早いパス回しで展開し前半14分古橋がジェルマーノのスルーパスを相手GKの出てきた瞬間見事なループシュートで1点リード。後半に入ると山形は点を取るべく前線を押し上げるが精度を欠いたフィニッシュに助けられる。また69分には酒本と山形、財前が交錯。
直後に相手が報復行為で一発退場もあり、その後セレッソは古橋、酒本で2点の追加点を上げ3-0で楽勝した。
ゲーム終了後は当然のごとく、長居近くの居酒屋へ繰り出し終電まで美酒を味わったのは言うまでもありません・・・・・・!?
2008年10月16日 会報 第3号
ヤンマー尼崎サッカーグランド 〜ハイブリッドターフ・オープニング〜
尼崎サッカーグランド 人工芝への改修工事として5月16日に着工しました尼崎サッカーグランドも6月末に完成し、7月7日に完成記念として、オープニングセレモニーが行われました。
セレモニーはセレッソジュニア、地元サッカークラブの他に、近隣の皆様や尼崎サッカー協会の幹部、また行政からの来賓を迎えて賑やかに開催いたしました。
まず始球式にはGK別所が守る中、来賓代表と尼崎工場長らがいっせいにシュートし見事にゴール。その後、セレッソ大阪森島選手による模範シュートを披露。
最後には地元尼崎の少年サッカークラブをはじめ、ヤンマーサッカー部OBが尼崎ママさんチーム、尼崎シニアを相手に記念試合を行い、参加者一同鮮やかな緑に貼り替えられたグランドで汗を流して、楽しいひと時を過ごしました。
2007年9月16日 会報 第2号
吉村 大志郎氏追悼試合!!行われる
吉村氏追悼試合 平成16年5月29日(土)ナビスコ杯予選リーグ
セレッソ大阪vs横浜マリノス 長居スタジアム・・・の前に吉村氏の追悼試合として、於:ヤンマーOBvs尼崎シニアの試合が行われた。
ヤンマーOBチームには、吉村氏の子供さん2人も特別参加し、後半吉村氏の次男正繁君が決勝ゴールを挙げ追悼試合に花を添える事が出来た。
ナビスコ杯の方はベストメンバーで戦ったセレッソだったが、横浜マリノスに0対1で負けてしまった。
2004年9月15日 会報 第1号
 ヤンマー・サッカー部創部の経緯
  昭和22年、全国中学サッカー大会で広島県代表の広島高師付中(現広大付高)が優勝した。
付中はそのあと博多での国体でも栄冠に輝いた。
メンバーに卒業後、関学に進み、古河電工に入社、全日本でも活躍した長沼健がいた。
長沼の守備位置はインナー。そのうしろ、ハーフバックに古川能章という選手がいた。
 古川は小柄だったが、得点能力もあり、2度の優勝にも貢献した。卒業後、早大に入った。
当初は公式戦にもでていたが、足を痛め卒業時はマネジャーをしていた。
昭和29年、ヤンマーディーゼルに入社、営業企画課に配属された。市場調査も兼ねていたが、毎日が
物足りなかった。「会社でサッカーはやれないか」という思いが日増しに強くなっていった。
そのころヤンマーにはテニス、軟式野球、スキー部などがあったが、どれも同好会の域を出なかった。
古川が描くヤンマーの運動部はそんな低いレベルのものではなかった。世界に通じるもの。もちろん全国
レベルのものでないといけない。となるとサッカーしかなかった。
同部で机を並べる同期生の澤田昭志と木村均も古川の考えに共鳴した。
澤田は北海道大の出身でサッカー部ではゴールキーパーをしていた。木村は早大ではボデービルに力を入れ
「元祖」といわれた。サッカーは高校(山口)でやっていた。3人は選手集めに乗り出した。
 思うような経験者などいるはずがなかった。若くて元気な社員に「サッカーをやらないか」と勧誘に回った。
9人が仲間になった。
それに古川ら4人、監督兼選手として河瀬浩正が加わり14人をサッカー部員として登録、会社に申請、活動が
認められた。ヤンマーサッカー部はこうして誕生した。(p.43-44)
 2002年6月16日発行ヤンマーサッカー部の歴史1957-1993
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